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浅井 克文
サイボーグ・フェミニズム[増補版]
2001年8月13日第一版発刊
編者 巽孝之

% 1985年に社会学者?ダナ・ハラウェイが執筆した論文『サイボーグ宣言』は
様々な問題をはらんだ「作品」であり、多くの人々に読まれ、後にカルチャルスタディーズの先駆けともなる「問題作」ともなったわけだが、今回、21世紀に至った今またこうして新たに再読されはじめているというのには、やはり興味深いものがある。
しかし、この2001年を境に新たに編まれたこの書物には僕は感心がもてなかった。「サイボーグ」ということばは、もうすでにSFや映画のものではない。
彼女が執拗に言う「意識」そこに僕は感心がある。
正直に言うと、僕はこの本から様々な問題を提示され、直面しつつも、さらに考察していく努力を怠った。
「サイボーグ」用語そのものとSF文学との関係。
「フェミニズム」の現在と共同体のありかた。
「ポストモダン」の盲点や、近代という捉え方。
語弊が生じるかもしれないリストだが、それらをそれぞれ浅くはあるが勉強していくが、どうしても欠落するものが生じる。
このテクストそのものは、不自由の中でいかに自由を獲得していくか。
それに尽きたのではないだろうか。
「有機体と機械とのハイブリッドであり、現代社会の産物で、また、それらはただ意識の問題である」と言われたら、空気を握りなさいと言っているのと、なんら変わらないのだ。
つまり、見えないものをいかに表現していくか? と言ったら、大袈裟である。しかし、大袈裟なことが討論される時代である。
ダナ・ハラウェイがやったことは、連体を求めずに自由を獲得していく闘争であったと捉えられるが、また、孤立の集合体の希求とも捉えられるのは、今まだ変わらない。
つまり、父親(党派)を必要としない「サイボーグ」のイメージであり、細分化されコード化される世界での主体のあり方でもある。
例えば、大きなオーディオ機があって、その後ろにはいくつものコードが連なっている。それらは想像以上に複雑に絡み合っていて、どうも自分だけではどうしようもなさそうだ。さらに、そのオーディオ機だと思っていた機械には、どうやら様々な装置がついていて、どうも音楽を聴くだけのものではないらしい。
そこで電器屋を呼ぼうとしたが、来たのは魚屋だった。
僕が今日、興味を持ち、勉強しているのは、この例示のようなものだ。
いや、馬鹿なことを言っているかもしれないが、自覚的でもなさそうだが、僕が今感じている混乱と不自由はまさにそれであり、表現手段がこれといって見当たらない。
僕は幾度か『サイボーグ宣言』を見直し、今また冷静に分析してみると、「見当たらない」と言いながらやってきた大学生活を一旦切り離し、外部との関係性を見直して、また新たに必要な部分を取り出し、張り付ける作業を進めることの重要性を感じた。そしてすでにその作業の準備が完了したと信じている。
「若い」だけかも知れないが、「見当たらない」だけでは、すでに息苦しい。
正直に書いた。
だから恥ずかしい限りであり、レポートになっているとは到底思えないが、これが今の僕の解答である。